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ネオ・アール・ブリュット

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2010年 07月 14日

何をして作品とするのか

(パソコンの入れ替えその他諸事あり今月初めの更新を一回抜かしてしまった格好ですが、、、)

8. 何をして作品とするか。

 今から30年近く前、プロフィールでも触れたように学生の頃に関わっていた身体障害者の劇団「態変」の主催者・役者の身体障害者の多くに脳性麻痺者がいたが、設立当時のごく初期、同時代の劇評家の中には、その激しく付随運動をともなった身体的動作の特徴をして、いわゆる舞踏との連想・類推のような意味合いで(「もうそのままで舞踏である」みたいな)高い評価を与える者もいた。だが介護という形でその障害者と日常をともにしていた目からすると、その動作自体は正に各人の日常の動作なのであってそれ以上でも以下でもないものであり、非常に不可思議な思いをした経験がある。

 ではその賞揚の先のあった件の土方巽はじめとする舞踏家たちは何故にあのような身体的にスムーズな動きをわざわざ阻害するような動きを通して身体表現をしていったのか?もちろん各舞踏家により考え方は違ったのであろうが、それらの動きによって手・足・体幹等々の持つ動きが本来の意味性を回復したりあるいは強調されたり、また別の意味に昇華されたりといった、つまるところ結局日常の動きでは立ち現れない表現の高みが獲得されていた(獲得を試みられていた)のであろう。

 「態変」も上記のごく初期の障害者解放運動からの流れで一二度舞台に立ったのみの者は去り、継続して身体表現を追求していく者たちによって継続され今日まで活動が続いている。

 ひるがえって今日のアール・ブリュット作品の評価はどうかといえば、その作家の状態・有り様(たとえば障害or病気の症例)のように思われるものにまで、作品としての評価を与えようとしているものも見受けられるように思う。

 紙一面に文字を延々書き続けたり、様々な機会に拾い集めたものを自宅や特定の場所に並べたりするのは、それだけでは作品でも何でもないし、一度見た風景を時間を置いて別の機会に細部にわたり再現し描き上げられるからといってその技芸が作品なのではない。また自分を落ち着かせるためまた日常の決まり事としての行動として部屋をぐるぐる歩き回る人をパフォーマーとは呼べないだろう。文字を繰り返し書く人、拾い集めたものを並べる人、一度見たものを忘れずにまた描きとめられる人、ぐるぐる回る(一見強いコンセプトに基づいてのパフォーマンスに類する)行動をとる人、それぞれにそれぞれの人にとってそれは単なる日常なのであって、一足飛びに表現とするのには無理があろう。

 筆と墨による漢字や漢字仮名まじりの書き文字を見たことのない西洋人には日本人や中国人が見たら見るに耐えない書でも素晴らしい書道作品に見えるだろうし、アラビア文字(アラビア書道)の良し悪しは日本に生まれ暮らす私には分からない。同様にそれぞれの人々の日常の行動を表現と錯覚するのは正に、自分たちが考えている自分たちの社会・文化の狭量さを露呈してしまっていると言えるのではないだろうか。

 それぞれの人が当たり前に自分たちの同じ社会で同じ時代を生きているという前提を外してしまっているから、それぞれが今現在自分が考えている日常を超えた何かを目にしたとき一律に表現に類したものと錯覚してしまうのだ。文化の有り様をもう一度広くとらえ直した上で、それぞれにそれぞれの日常を超えた表現の高みといえる領域があり、正にそれを求め作り上げたものこそが作品なのであるということを見極める力量がアール・ブリュット作品をとらえる視点には必要なのではないかと思う。

by selfso_murakami | 2010-07-14 18:48


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