ネオ・アール・ブリュット

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2010年 06月 04日

同時代のアール・ブリュット作家・作品をとらえる視点は正に同時代のものでなくてはならない

6. 同時代のアール・ブリュット作家・作品をとらえる視点は正に同時代のものでなくてはならないのではないか。

 結局、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートと呼ばれる作品が公になるために介在者が必要であるという考えは、実際にそれら作品を扱い作家とつきあうギャラリー実務を通して否応なく突きつけられる実感が出発点なのであって、このブログのその他の論点の記事の形、つまり既にある論述や資料から論を展開するというのとはだいぶ距離があったように思う。

 展覧会開催も普通に営まれる社会活動のひとつであり、スペースでの展示という出来上がった形に至るまでに、様々なやり取りを経て実現されるのだ。作品そのものとは直接関係のない開催時期・搬入搬出・案内状作成発送等々の詳細を詰め段取りを取らねばならないし、もちろん数多ある作品の中から正に今回の展示で何を出展するのかという展覧会そのものの在り方に直結する事柄まで、話し合い詳細を決定・都度調整を行う等の必要が否応なく存在する。ところがこのような詳細を詰める類いのやり取りが、他の作品作家の場合と違い、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートと呼ばれる作品作家本人との間でダイレクトにはまず成立しない。ただ逆に、このことは非常に重要なことだが、展覧会が開催され自らの作品が展示されることも、それを来廊者が観覧することも、また場合により販売等されること等々も、すべて全く認識しえない・認識していないという作家とも出会ったことは一度もない。現時点でその作家が生きている社会において社会活動を行う条件としてその成員に(成文化されている訳ではないが、もちろん誰それかによる任意の規定という類いのものでなく、その社会がその時点でその社会として成立するためにやむを得ず必要なものとして)共有されている要件があり、実際には単独で活動主体となるためのハードルは漠然と思われているものよりもかなり高いのだ。

 このことは、元々のアール・ブリュット定義あるいはその後今日まで続く多くの論考の中に散見される「純粋性」に類する語が本質的に一体何を表しているのかをとらえようとする時、また一方で前々回の記事で述べたその「純粋性」を強調することにより作家の同時代性が無視されてしまう傾向があるという事柄を考え合わせる時、非常に重要なポイントになる。ひとつの社会内における「純粋性」というものは結局、構造的に見ればその社会の他の構成員と同等の活動主体要件が満たされていない在り方だということである一方、超然と孤立し作品制作を行うという勝手な都合の良い思い込みのようにアール・ブリュット作家本人が社会で存在する訳では決してない。過去において、つまりアール・ブリュットが最初に定義された数十年前においては「純粋性」という言葉と表裏の形で社会とつながるルートの欠落を肯定する、つながっている部分に目を向けない・向ける必要もないということがあり得たことかも知れないが、今日、全く社会とつながるルートを断絶された人間が作品制作を出来ようはずもないのは自明であり、その事実から目を背けるのはいかにも不自然である。同時代のアール・ブリュット作家・作品をとらえる視点は正に同時代のものでなくてはならないのではないだろうか。
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# by selfso_murakami | 2010-06-04 12:44