ネオ・アール・ブリュット

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2010年 06月 15日

アール・ブリュット作品の同時代性と作品をとらえる側の視点の同時代性

7. アール・ブリュット作品の同時代性と作品をとらえる側の視点の同時代性

 アール・ブリュット作品と他の美術作品との同時代性を最初に感じたのは「みずのき寮」の作家達の80年代の作品の中に同時代のニュー・ペインティング(新表現主義)の作品に通じるものがあるのを発見した時だった。以降の作品でも、90年代においては例えば永島正人作品において「椅子」や「時計」など日常生活に使用する単なる道具がそのもの単独で絵画のモチーフになっているとことに小林孝亘の「pillow」などの作品に通じるものが、また水性マーカーなど使用の簡便な画材によって描かれることにもよると思われるが明らかなマンガやイラストに類するようなごく近年のアーツ・ブリュット作品の中の多くに見られる<軽さ>に2000年代に入り現代美術の分野であたかもマンガやイラストとの垣根を取り払ったような作品が数多現れてきたこととの同時代性を感じずにはおれない。

 1992年にロサンゼルスで開催その後、日本にも巡回しアール・ブリュット作品の取り上げられ方や位置づけに大きな影響を与えた「パラレル・ヴィジョン展」(アールブ・リュット、アウトサイダー・アート作品とそれらに影響を受けた同時代の現代美術作家の作品を並列展示した展覧会)も、(それ以前のコンセプチュアル・アートやミニマム・アートへの反動・反発として生まれた)80年代のニュー・ペインティングの潮流に相関・呼応した作品をとらえる側の美術史の再読み込みの動きと言えるし、アール・ブリュットというジャンル分けを取り払えば結局「かわいい」や「キモかわいい」の範疇にまるまる当てはまるであろうダーガーやアロイーズの作品がここ数年急速に幅広く高い評価を受けるようになったことは、正に作品をとらえる側の視点としての同時代性の現れと言えよう。
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by selfso_murakami | 2010-06-15 13:23
2010年 06月 04日

同時代のアール・ブリュット作家・作品をとらえる視点は正に同時代のものでなくてはならない

6. 同時代のアール・ブリュット作家・作品をとらえる視点は正に同時代のものでなくてはならないのではないか。

 結局、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートと呼ばれる作品が公になるために介在者が必要であるという考えは、実際にそれら作品を扱い作家とつきあうギャラリー実務を通して否応なく突きつけられる実感が出発点なのであって、このブログのその他の論点の記事の形、つまり既にある論述や資料から論を展開するというのとはだいぶ距離があったように思う。

 展覧会開催も普通に営まれる社会活動のひとつであり、スペースでの展示という出来上がった形に至るまでに、様々なやり取りを経て実現されるのだ。作品そのものとは直接関係のない開催時期・搬入搬出・案内状作成発送等々の詳細を詰め段取りを取らねばならないし、もちろん数多ある作品の中から正に今回の展示で何を出展するのかという展覧会そのものの在り方に直結する事柄まで、話し合い詳細を決定・都度調整を行う等の必要が否応なく存在する。ところがこのような詳細を詰める類いのやり取りが、他の作品作家の場合と違い、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートと呼ばれる作品作家本人との間でダイレクトにはまず成立しない。ただ逆に、このことは非常に重要なことだが、展覧会が開催され自らの作品が展示されることも、それを来廊者が観覧することも、また場合により販売等されること等々も、すべて全く認識しえない・認識していないという作家とも出会ったことは一度もない。現時点でその作家が生きている社会において社会活動を行う条件としてその成員に(成文化されている訳ではないが、もちろん誰それかによる任意の規定という類いのものでなく、その社会がその時点でその社会として成立するためにやむを得ず必要なものとして)共有されている要件があり、実際には単独で活動主体となるためのハードルは漠然と思われているものよりもかなり高いのだ。

 このことは、元々のアール・ブリュット定義あるいはその後今日まで続く多くの論考の中に散見される「純粋性」に類する語が本質的に一体何を表しているのかをとらえようとする時、また一方で前々回の記事で述べたその「純粋性」を強調することにより作家の同時代性が無視されてしまう傾向があるという事柄を考え合わせる時、非常に重要なポイントになる。ひとつの社会内における「純粋性」というものは結局、構造的に見ればその社会の他の構成員と同等の活動主体要件が満たされていない在り方だということである一方、超然と孤立し作品制作を行うという勝手な都合の良い思い込みのようにアール・ブリュット作家本人が社会で存在する訳では決してない。過去において、つまりアール・ブリュットが最初に定義された数十年前においては「純粋性」という言葉と表裏の形で社会とつながるルートの欠落を肯定する、つながっている部分に目を向けない・向ける必要もないということがあり得たことかも知れないが、今日、全く社会とつながるルートを断絶された人間が作品制作を出来ようはずもないのは自明であり、その事実から目を背けるのはいかにも不自然である。同時代のアール・ブリュット作家・作品をとらえる視点は正に同時代のものでなくてはならないのではないだろうか。
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by selfso_murakami | 2010-06-04 12:44