ネオ・アール・ブリュット

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2010年 05月 17日

これまでの論点の整理

 考えを整理して前回に続く論考を行おうと思ったが、どうもまだ躊躇されるものがあり、今回は一度踏みとどまってこれまでの論点・論の流れを見てみようと思う。

1. 先ずアール・ブリュットという語がコレクション名として、コレクションの指針として造語されたことを確認し、論を始めた。

2. そしてこの語が、アウトサイダー・アートと英訳される過程を経てもなお作品に対する規定なのか、作家に対する規定なのかが判然としない旨述べた。

3. その上で作品表現の中身や作家の人物像に拘泥することなく事態の有り様・構造を俯瞰した視点でとらえるならば、十分条件ではなく、あくまでも必要条件としてだが、アール・ブリュットとは作品が公になるために介在者が存在する、そういう作品ではないかとの考えを提示した。

4. なおかつこの介在者が存在するという構造は、物故の作家の作品に見られる構造と同じであることを指摘した。

5. そして前回の掲載では、日本でのアール・ブリュット作品紹介の有り様における(若い日本国内の作家と西欧との物故作家の併記という)時代性のズレの問題と、作品定義における同時代性の視点の欠落の問題とを例にあげ、本来アール・ブリュット作家も同時代を生きている筈だと主張した。

 いま振り返ると、作品に対する規定なのか?それとも作家に対する規定なのか?と問いながら、一方でハッキリとそのことに対する自らの考えを述べないにも拘らず、記述の前提として、作家に対する規定が先ずもって存在するという確信のもとに論を進めてきてしまっていたように思う。これは、自分自身読後の不満を抱いていた、アール・ブリュット、アウトサイダー・アートに対する論考に散見される、前提と結論がまるで循環してしまうような論述と同じ轍を踏んでいたのかも知れない。やはり、3の作品が公になるために介在者が存在するという考えの詳述が必要で、永島正人・東京展の開催による中断を挟んで、結局その部分をやり過ごして論を進めるような形にしたことが問題だったように思う。
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by selfso_murakami | 2010-05-17 20:40
2010年 05月 02日

アール・ブリュット作家も同時代を生きている

5. 当たり前のことだが、アール・ブリュット、アウトサイダー・アート作家も同時代を生きている

 3月1日付の記事で、現状、アール・ブリュットを取り巻いている状況が過度の思い込みによる意味のない賞賛と、同様に過度の思い込みにによる意味のない拒絶が入り交じっているような具合で、冷静な確認作業はどうしても必要なものなのではないか、と述べた。そのために当たり前のこと・当たり前すぎることの再確認とでもいうべき形で論を進めようと文章を書いてきた訳だが、その実こういった作業は、目の前に立ち現れるの圧倒的な作品の魅力を語るような場合と違い、読む側として面白みを削ぐばかりでなく、書き手側にもかなりの消耗を強いるように思う。3月に掲載した丸木スマと永島正人の紹介文のような開かれて多くの人とつながるエネルギーを持った文章との違いは、自分自身歴然としている。

 ただ、ブログのタイトルをネオ・アール・ブリュットとした企図を明確化するための土台になるであろう自身の考えの確認作業としても、もう少しこの拘泥?を続けねばなるまい。

 さてここ数年、アール・ブリュット、アウトサイダー・アートを紹介する作品集の出版や専門誌に特集が組まれることが多く見られるようになってきた。その理由・背景の掘り下げに関しては本来個別に論を組み立てねばならないのかも知れないが、概観としては国内外のこれまでの様々な活動の結果や一般の興味関心の高まりととらえて良いと思う。ただそれらのいくつかに、主に西欧の物故のアール・ブリュット、アウトサイダー・アート作家と、日本国内の非常に若いアール・ブリュット、アウトサイダー・アート作家を並列併記して取りまとめて一律に論じているものを散見する。過去において日本国内での収集が無かったためなのか、現在西欧において取り上げるべき作家がいない(or事情により取り上げられない)のか、どうにも拭えない違和感が残る。

 少し話の視点をずらすが、先述した「芸術の教養に痛めつけられていない連中の作品のことである。彼らにあっては、知識人の場合と違い、真似事がどこにもない。主題、素材の選択、配置の方法、リズム、書法など、すべてを自分自身の奥底から引き出してくるのであって、古典芸術のしきたりや流行芸術のやり方を借りたりはしない。ここに見られるのは、自分自身の衝動からのみはじめて、すべてが再発明された、最も純粋で、生の芸術行為である。つまり、文化的芸術にありがちな猿やカメレオンの機能ではなく、発明という機能から生まれる芸術だ。」というデュビュッフェによる定義を、現在それも美術ジャンルの定義に詳しくない一般の人々が読めば、古典・伝統美術に対する現代美術の真髄・有り様を示していると勘違いしてしまうかも知れない。
 20世紀に入り台頭したドイツ表現主義やシュール・レアリスム、第二次大戦後のデュビュッフェ自身その中心的存在と考えられているアンフォルメル等々、同時代の芸術運動と連動する形でアール・ブリュットもコレクションされていったのであり、考え方・定義も同時代の芸術潮流の中にあり、その考え方が広く一般に定着していった歴史を経て現在ある芸術認識の中で、これはごく普通の芸術に対する考えのように読めてしまうのだ。今となっては、正にオリジナリティこそが芸術の真骨頂であるというのが常識的な考え方になったのではないだろうか。

 結局、アール・ブリュットに関する出版にせよ記事にせよまた展覧会にせよ、純粋性を強調するあまり、それぞれの時代に個々の作品・作家が持っている同時代性を無視して一律に論じている論考や併記する企画に対する違和感が前述のものだったように思う。いくら作品が公になるために介在者が必要な作家だからといって、完全に社会から隔絶した生活を営んでいる訳ではないし、もちろん自らを取り巻く社会を全く認識せず生きている訳でもない。同じ時代の流行歌を耳にし、アニメキャラクターを目にし、その時代の街並みを眺め、皆が食べる食べもの食べ、何より同時代を生きる人々と日々接して生きている中で作品を生み出しているのだ。


と、ここまで書き進めて更に論を進めたいが、まだ考えを整理したい要素もある。少し時間をおいて、次回も引き続きこの同時代性の問題を考えていくことにしたい。
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by selfso_murakami | 2010-05-02 16:36