ネオ・アール・ブリュット

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2010年 02月 16日

必要条件として、作品が公になるために介在者が存在するということ。

3.十分条件ではなく、あくまでも必要条件としてだが、作品が公になるために介在者が存在するということ。

 アール・ブリュット作品それぞれの表現の具体的造形的な中身、あるいはその個々の作家の人となり・人物像の詳細に入り込んでも、却ってこの語・概念の核心をなすものは見えてこないように思う。作品についての様々な言説や詳細な人物研究によるよりも、逆に距離を置いて大きな構造を見ることのほうが必要ではないか。

 何ゆえにアール・ブリュットという語がコレクションに属する作品の定義としてのみ在り、芸術家自らが表明し活動する芸術運動の指針とはならず来たのか?それは取りも直さず、常にその作品を公にする(なる)過程で何者か介在者が存在し、公にする活動が作り手自らの手によるものではなかったからだ。もちろん介在者がいるからといってその全ての作品がアール・ブリュットになる訳ではない。だが一方で、芸術の教養に痛めつけられていない or 文化や教養に毒されていない等々の定義は、その実、純真・無垢 etc. といった判断の振り幅がある形容で片付けることなく構造的に見れば、件の芸術・文化や教養を築いている社会システムとのダイレクトなルートの欠落そのもののことを言い表していることは間違いない。

 例えば、ゾンネンシュターンの作品がデュビュッフェによってアール・ブリュットそのものでなく飽くまでそれに準ずる(評価として劣る)範疇に分類されたのも、ひとつにはアシスタントが描いた作品にサインをし自らの作品として売買する等の詐欺師的な行動によるかと思われるが、何といっても本人がダイレクトに通常の美術業界とのコンタクトを持ち作家活動・作品発表を行ってきたからだったのではないだろうか。

 つまり、作品表現の中身や作家の人物像に拘泥することなく事態の有り様・構造を俯瞰した視点でとらえるならば、十分条件ではなく、あくまでも必要条件としてだが、アール・ブリュットとは作品が公になるために介在者が存在する、そういう作品であるのだ。
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by selfso_murakami | 2010-02-16 10:19
2010年 02月 01日

作品に対する規定なのか、それとも作家に対する規定なのか?

2.作品に対する規定なのか、それとも作家に対する規定なのか?

 アール・ブリュットと並んで、というより近年ではこちらの語の方がより多く使われているのかも知れないが、アウトサイダー・アートという言葉は、ロジャー・カーディナルが1972年自らの著書のなかでフランス語であるアール・ブリュットの英語訳として考案したものだ。

 一見ここで作品に対する規定(生のままの・加工されていない(ブリュット(brut))芸術(アール(art)))が、作家に対する規定(外部の人(アウトサイダー(outsider)の芸術 (アート(art))に置き換えられてしまっているようだが、はたして前回の記事で引用したデュビュッフェのアール・ブリュットの定義においても作品に対する規定なのか作家に対する規定なのか、どうにも判然としない部分が多いように思う。

 もちろんその作品群の持つ圧倒的な魅力に対峙しての言葉であろうが、その説明の中で、作品そのものに対しては、既存の(文化的、知識人による)芸術とは全く違うものということのみ規定されていて、それがどのような形に作品として結実し表れるのかという具体的なことには一切触れられていない。というより規定できないものであるということが積極的に定義されているのだ。

 一方、アール・ブリュット・コレクション自体、1922年に『精神病患者の創造』を出版したハンス・プリンツホルン等、デュビュッフェの活動に先立つ精神科医たちによる精神病患者の作品収集・研究を出発点にしているのは紛れもない事実であり、先の説明の冒頭、芸術の教養に痛めつけられていない連中の作品のことである、と明言しているにも関わらず、他の機会には、作家に対する規定となるのを避けるように「胃弱の人の芸術や腰痛持ちの人の芸術が存在しないように、狂人の芸術などというものは存在しない」ともデュビュッフェ自身語っている。

 ただやはりアール・ブリュットがコレクションとして存続、現在においても収集活動が続き、様々な形での展覧会が各所で継続的に行われている事実から、紛れもなくこの語・概念の核心をなす明確なものが存在するはずで、それを見定める必要があるように思う。
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by selfso_murakami | 2010-02-01 11:31